【不思議体験記32】お坊さんの法話と不思議なシンクロ現象part2

※前回のあらすじ
享年106歳の大往生をとげた親戚のおばあちゃん。その最期のお顔は、とてもきれいで安らかな表情をされていました。その後、お葬式が終わり、49日の法要の際に天台宗のお坊さんの法話を拝聴しました。その内容が、私が今まで経験してきたことと少し関連があることに気がつきました。さて、その内容とは・・・。

 

一隅を照らす - これ即ち国宝なり

そもそも天台宗とは、中国を発祥とする大乗仏教の1つで、当時中国天台山に住んでいた智顗ちぎが実質的な開祖と伝えられています。その天台山で天台教学を学び、ありがたいお経を日本に持ち帰ったのが伝教大師 最澄です。

最澄は、767年に近江の国で生まれ、幼き頃の名前を広野ひろのと名付けられました。12歳で近江の国分寺に入り、14歳で得度(出家して仏門に入ること)して最澄の名を賜り、その後も厳しい修行と勉学を重ね、804年に還学生げんがくしょうとして中国の天台山に渡ります。

ただ、中国に渡るのは命がけであり、4隻の遣唐使船で出航したものの、中国に無事に到着できたのは2隻でした。2隻の内の1隻は最澄が乗った船で、もう1隻には後に真言宗の開祖となる空海が乗っていました。

そして帰国後、天台の教えを日本に広めるために、天台法華円宗(法華経を基にした宗派)の設立許可を願い出て、晴れてそれが認められたことにより、806年に日本で天台宗が公認され、現在に至ります。

4隻で出航した遣唐使船のうち、無事に到着できたのは最澄と空海が乗った2隻の船って・・・。もうこれだけで、何か大きな運命を感じざるを得ませんね。やはり、目に見えない大きな存在によるご加護があったのでしょう。

●天台宗の公式ホームページは下記リンクからどうぞ。

(参考:一隅を照らす 天台宗公式HP)

 

身近にある天台宗のいろいろ

話は本題に戻りまして、お坊さんの法話がいよいよ始まりました。そのお話に驚くことがあったのです。

僧「さて、天台宗のお寺は全国にたくさんありますが、その中でもみなさんの身近にある、有名なお寺のいくつかをご紹介します」

私(あまり意識したことはないけど、例えばどんなところ?)

僧「まず、みなさんもご存じの日光東照宮ですが、そこにある輪王寺というお寺がそうです」

私(え、そうだったの?東照宮には修学旅行でも行ったし個人的にも行って、その時に輪王寺に参拝したんだった。とても雰囲気がよかった印象があるな)

そういえば、輪王寺で売ってた1箱1,000円のお線香を買おうかどうか迷いましたが、まあ、ちょっと高いなと思って結局買わなかったこともついでに思い出しました。(´∀`*)←そのぐらい買えよw
下記が輪王寺の一部写真です。

輪王寺の大護摩堂。ここに売っていた素敵なお線香を買いそびれてしまった

大護摩堂正面

 

僧「次に、上野にある東叡山寛永寺さんもそうですね」

私(ええ!?寛永寺さんもそうなの?疫病退散として角大師のおふだを買おうとネットでいくつも寺院を調べた時に、この寛永寺さんの開山堂がいい感じだなと思ってここで買ったんだよね)

東叡山寛永寺は、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門に当たる上野の大地に、天海大僧正によって創建されたお寺です。『東の比叡山』という位置づけでもあります。

天海と言えば、この話は皆さんも知っているかと思われますが、昔から言われている謎な噂がありますよね。それが、明智光秀=天海大僧正ではないのか⁉というものです。

光秀に関しては、49日の法要を行う日の少し前に、世界のなんだコレ!?ミステリーというテレビ番組で光秀の特集をやっていました。光秀は本能寺の変で織田信長を討った後、豊臣秀吉軍に追われて山中の藪(現在の京都市伏見区小栗栖)に差し掛かった時に、落ち武者狩りの農民に竹やりで刺されて絶命した、あるいは致命傷を負い、逃げ延びるもその後に死を悟って家臣の介錯により自刃した、と伝えられています。

しかし、実は光秀はその時に命を落としたのではなく、生き延びて仏門に入り、そして天台宗の僧侶として後に天海大僧正になったという説もあるわけです。

まあ、これに関しては証明はできませんが、現代においては古文書や史料などがかなり研究され、これまで謎だった多くのものが解明されてきていますので、もしかしたらいつの日か光秀=天海説が本当にそうだった!という歴史的ニュースが流れたらおもしろいだろうなと、ちょっと期待をしているところでもあります。

僧「そして岩手県にある毛越寺、そして中尊寺もそうです。中尊寺の金色堂は国宝にもなっています。ちなみに、金色堂と石碑に書いてある文字は、明治の頃に(福島県の)須賀川市の加治町にあった妙林寺というお寺にいた住職が書いたものです」

私(おお、毛越寺に中尊寺、この2箇所はずっと前から興味があるところで、コロナが終息したらぜひ行ってみたいんだよね。それに、須賀川にいたお坊さんが金色堂っていう字を書いたのか)

調べてみると、毛越寺が天台宗別格本山、そして中尊寺が天台宗東北大本山だったのです。そして、須賀川市にある妙林寺は、仁寿2年(852)に慈覚大師によって開山したと伝えられ、明治31年に住職となった張堂寂俊(龍禅子)が、後に比叡山に入って入木道という書法を受け継ぎ、中尊寺から依頼を受けて「金色堂」という標柱を書いたそうです。書の腕前としてはかなり有名だったようで、あの犬養毅元首相も習いに来たそうです。

福島県出身の偉大な書家を、ここで初めて知ることができました。

 

なぜか遠い昔からあの方を知っている…という感覚

僧「さらに、あの有名な親鸞聖人も、比叡山で修業をやっていたのです」

私(そうだったんだ。親鸞聖人は浄土真宗の開祖だけど、もとは比叡山で修行をしてたんだ)

親鸞聖人は、比叡山に登って20年に及ぶ修行を行い、後に師匠となる法然と出会いました。そして「法然聖人に騙されて地獄に堕ちたとしても後悔しない」とまで思いを定め、本願を信じて念仏を唱える身となったのでした。

また、以前のブログの記事でも書きましたように、私は小学生の時に般若心経を全文覚えた後に、観音経にも興味を持ち始めて勉強したことをきっかけに、本屋でふと目にした仏教関連の本を手に取って読んだりと、その頃から周りとはだいぶ変わった少年時代を送っていました。

さらには、歎異抄の内容について解説をしていたテレビ番組を観て「わかるわかる!」と共感したり、親鸞聖人の掛け軸を見て「あれ?…なんとなく知っている」などと、個人的には無宗派でありながら、隠れ要素とも言える宗教的身上があることに自分でも気がついていました。

どうしてそんな思いが心の中に生じるのだろうか、しかも親鸞聖人を昔から知っているような感覚があるなんて・・・。

もしかしたら私は、遠い昔の過去世において、こういった聖人と言われる方々とどこかでお会いしていたのではないか、とさえ思えるのです。

そんなまさかとは思うことですが、たとえただの空想の中ではあったとしても、聖人と言われる方をなぜ懐かしいと思うのか、その点を自分の心に何度も尋ねてみようと思っています。

そして可能ならば、いつの日かその理由が判明できる日が来ることを待ち望みたいとも思っています。

おっと、そんな思いを馳せていたら、随分と話のボリュームが広がってきましたので、この続きは次回で。

※part3へ続く

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