【不思議体験記18】3・11の大地震を全く感じなかった

言わずと知れた東日本大震災の当日、私は仕事で上司と共に福島の会津地方にでかける用件があり、朝の7:30分に事務所を出発した。

会津の中でも「奥会津」といわれる場所で、高速道路を使って約3時間ほどかかって取引先に到着した。事務的な業務を一通り終えた後に昼食をとり、午後からも一部の業務をこなしてから次の取引先へと向かうことになった。その時の時間が午後2時ごろであった。

途中、いくつかのトンネルを抜け、上司とも談笑しながら取引先に到着したのが午後3時30分ごろだった。ここに来てまず思ったのは、普段ではあまり見ることがないぐらいの数多くの車が、駐車場はおろかその横に続く細い路地裏にもズラリと停車しており、ようやく道路の片隅に1台停められるスペースをみつけられたほどだった。

私「あれ(いつもはこんなに混んでいないのに)、今日は何かあったのかな?」

と思いながら建物に入ると、大勢の来客でごった返しており、受付に顔を出すとそこには焦りをにじませた女性職員が私たちの対応にあたった。

私  「こんにちは。(様子をうかがいながら)…何かあったんですか?」
職員「えぇ⁉ 今どこから来たんですか?地震があったことを知らないんですか?」
私  「(上司の顔を見ながら)…地震ですか?……いや、わからなかったですね」
職員「えぇー⁉ あ、あのテレビを観てください!」

と言われたので、上司と一緒に振り返ってみると、そこには今まさに漁港に津波が押し寄せている映像が流れているではないか!私と上司は驚きのあまり声も出なかったが、これはただならぬ事態が発生していることを理解し、急きょ打ち合わせをキャンセルして事務所に戻ることにした。

帰り道は大渋滞、当然ながら高速道路は通行止め、頻発する余震のたびに車が左右に揺れながらも何とか事務所にたどりついたのが午後9時だった。

事務所内は、キャビネットが倒れて書類が散乱、机の上のパソコンは転げ落ち、祀ってあった神棚は落下して無残にも倒壊していた。同僚たちの携帯に60回ぐらい入電を試みたが、全くつながらない。安否が気になる。だが、何とか今は自分ができることをやろうと思い、最低限の身の回りを整理してから事務所を後にしたのだった。

この大地震では、幸いにも私たちがいた会津地方は比較的被害が少なくて済んだ。地震が発生した午後2時46分という時刻はおそらく、いくつかあるトンネル地帯を走行中だったかもしれない。もしかしたらこの地域は地盤が強かったのだろうかとも思ったが、とはいえ、あれだけの大きな揺れであったため少しぐらいの振動は感じてもいいと思うのだが、運転していた私はもとより、同乗していた上司でさえも全く揺れ一つ感じることなく、平常に走行していたとは不思議でならないことである。

◎上司との会話が偶然にも地震を予言か
そしてもう1つ。実は、この地震がくることをまるで予言していたかのような会話を、偶然にもこの上司と交わしていた事実もあることをここに記述する。

それは、震災の3日前の3月8日(火)のことである。この日も私は上司と会津に来ており、一通りの用件が済んだので事務所に帰る途中のトンネルを走行中のことだった。

その上司が急に「しかしこの辺はトンネルが多いねぇ。もしここを走っている時に地震でもきたら、潰れて助からないよな?」と言いだした。私も「そうですね、トンネルの崩落事故で亡くなった方もいますからね。さすがに地震が来てトンネルが崩れたら、もう無理でしょうね」と答えていたのだ。まさかその3日後に本当に大地震がくるとはこの時だれが予想するだろうか。なぜ私たちが、あのタイミングであのような会話になったのかはいまだにわからないことである。

多くの犠牲者を出し、そして多くの人たちが大地震に恐怖したあの瞬間、場合によっては危険地帯と言ってもいい場所を走行していた私たちは、不思議なことにその揺れを全く感じることなく、そして幸いにもトンネルが崩れ落ちることもなく、無事に帰還できた奇跡に、感謝したい。

【補足】

あの東日本大震災から7年半が経過いたしましたが、いまだに記憶の中には当時の様子が目に浮かんできます。また、ここ数年の間でも大きな地震が各地で発生しております。被災された皆さま方の心痛をお察しするとともに、1日も早い復旧を願っております。

※「どうして今頃に大震災の話なの?」と思われたかもしれませんが、私がこれまでに
体験してきた不思議な出来事(幼少期〜2017年までのもの)を綴った『不思議体験記』
から、順番にブログに転載しておりますので、「その順番通りに掲載してきたら今回が
大震災の話となった」だけのことです。

生まれも育ちも福島の私は、まさか自分の故郷が、世界から風評的な見地で注目を浴びてしまうような、あのような大惨事に見舞われることになろうとは、想像の片隅にも考えたことが無い事態でした。

周囲の方々の中には、主に自主避難をされる方が多くおり、私たち家族も一時は自主避難を検討しましたが、しかし当時の私は現場管理の仕事に携わっていたため、自分が避難するよりもまずは現場で働く社員たちの安否確認を優先で行いました。

しかしながら、ほとんど電話がつながらず、車で移動するにもガソリンスタンドが全域で閉鎖しているために長距離が移動できず、コンビニやスーパーにも食料や物資の供給がほとんどされていない状況でした(お酒が大量に売れ残っていたことが印象深いです)。

原発事故にともなって避難を余儀なくされた社員たちが数十人おりました。まずは何よりもみんな無事であってほしいという思いで、社員一人一人の安否確認を取るために電話をかけましたが、とにかくつながりません。携帯電話ではほぼ無理でした(ただし携帯電話ではなく、固定電話からなら少しつながりやすかったです)。

さらにその社員たちが一体どこの区域に避難をしたのか、所在確認すらも思うようにできなかった現状がありました(最終的には全員の無事が確認できてホッとしました)。

福島県内の各地域の震度は、5弱〜6強などがありましたが、当日に私たちがいた会津地方の一部では震度4のところもありました。こうして見比べると、震度4という数字が低く見えてしまい、それほど大きな揺れではないだろうと思ってしまいがちですが、そのようなことは全然ありません。体感的に言えば、それなりに大きいと感じる地震です。

例えば、当日に私たちがいた地域が震度4だったとした場合、それであっても大きいと感じる地震なわけでありますから、いかに車で走行中とはいえ、私も上司もそれらの揺れを全く感じなかったなどという、そんなおかしなことは普通は絶対に起こらないはずなのですが…。

さらには、地震発生の時間帯はいくつものトンネル地帯(山間部)を走行していた時間帯だったと思われますので、場合により崩落の危険性もありましたが、特に異常は見当たらず、運転に支障をきたすこともなく、まさかそんな大地震が起こっていることなどみじんも感じることもなく、上司と談笑しながら取引先へと向かっていたことに、後から知って心底驚きました。

観測史上最大規模の地震を、その身に全く感じなかったという、今をもっても謎の1つではありますが、あの状況で当然のごとく考えられる物理的な事象が、?なぜか私たちには一切感じることが無かった?という事実をとらえてみると、もはやこれは物理的なものではない、見えざるご加護が働いたのではないか、としか考えようがないのです。

そのことを胸に秘め、いただいた奇跡に感謝をするとともに、亡くなられた多くの方々に、改めてここに黙とうを捧げたいと思います。

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