【インスピレーション3】内なる声とともに

ある真夏の日のことだった。

椅子に腰かけた私は、その暑さを少しでも凌ごうと片手にはアイスクリームを、そしてもう片方の手で、重くて分厚い『あるヨギの自叙伝』の本を支えながら膝の上に置き、ゆったりと読もうとしていた時だった。

アイスクリームをたいらげた私は、手に残されたアイスの棒を捨てるために立ち上がろうと思ったが、わざわざ捨てに行くのを少し面倒くさいと感じ、テーブルの上にでも置いておけばいいだろうと思った。

だが、アイスの棒をそのままテーブルに置けば、その部分が当然ベタベタとしてしまい、今度はそのテーブルを拭くはめになってしまう。「それじゃ、別に持ったままでいいか」と考え、片手に棒をずっと持ったまま本を読み続けていたのだが、ここであることに気がついた。

私「この自叙伝の本……重すぎて片手では支えられない…」。

おいしいアイスクリームを食べている最中はそれに全く気がつかなかったが、食べ終わったあと、500ページをこえる分厚くて重い本を片手で支えながらページをめくるという行為が、これほどまでにつらい「作業」という感覚に一変するとは思ってもみなかった。

そんな私の横着な態度と、急に読書の意欲が薄れてきたことを、まるで「全部見ているぞ」と言わんばかりに、「喝」ともとれるインスピレーションが入ってきた。

内なる声「得るものがあるということは、捨てるものがあるということを現す」

うわわ…内なる声が届いた。きっと白龍様だろうか。それとも、この自叙伝にイラストとして描かれている神人のババジ殿(私はなぜか「殿」と敬称を付ける呼び名を好む)なのか、と思った。

今ここで必要とする行動を、「面倒くさい」という思いでかき消してしまい、安易に「楽」を選び取る行為を良しとしない、という言葉であった。物質的な取捨の均衡を保つことも、この世に生きる人間の大事な務めの1つであるようだ。

内なる声「得たものを失うことなく継続させたいという人間の物質的・権威的欲求
     には、そこに計り知れないほどの「貪欲の闇」が渦巻いている」

 私 「わかりましたー!」

心の中で思いっきり叫んだ私は椅子から立ち上がり、わずか8歩ほど歩いたところにあるゴミ箱へアイスの棒をねじこんだ。この8歩の歩みを惜しむ横着さ…。なんともはや、怠け心がついたものだ。

そして改めて、自叙伝の本を両手でしっかりと持って読んでみると、「おお、普通に読める、重いけど苦にならない、すごい!」と、白龍様やババジ殿から「そんな当たり前なことをおまえは今ごろ気がついたのか!」と思いっきりツッコミをされてもおかしくないほどの一人芝居を演じきり、そのままの勢いでしばらく読みふけってしまった。

私の横着ぶりを見て、内なる存在が即座にインスピレーションとして鋭く、そして厳しくもあり、時には愛情もある示唆を与えてくださることに、この方たちは私の身近な「お師匠様」ともいえる頼もしい存在であることに変わりはない。

Dr.テリー氏の記事にも記載したように、アシュタールから「あなたの内側にはドラゴンがいる」ということを告げられたこともあり、その存在をより一層、確信めいた証として心に刻むことができたことをとてもうれしく思う。

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